今日も 来て しまった

おいしく食べて、温かい布団で眠る。しあわせのかたちを考える日々の記録

メメント(家族のこと 1)

おかあさん、これでおにいちゃん、なおるかもしれないよ

 

まだ幼稚園園児だったころ、6歳上の兄が階段から転げ落ちた。頭をしたたかに打ち、火がついたように泣き叫ぶ兄の傍らで、私はそんなことを言った、らしい。

「らしい」というのも、物心つく前で、まったく覚えていないからだ。母は「あら、弱ったことを言う子や」と思ったとのことで、時おり思い出したように 40 年近く前のこの話を繰り返す。

 

実のところ「なおる」も「なおらない」もなく、兄は生まれついて知的障害があり、自閉度も高い。昭和 50 年代当時は共生社会の思想もさほどなく、兄は小・中と普通学級に通い、悪ガキにからかわれては泣いて下校していたように思う。

 

通学路の電柱には「●●(兄の名)のバカ」と大きくペンキで落書きされ、明らかに弟とわかる名の私は肩身が狭かった。母はこのことをずっと気に病んでおり、三十年ほど経って見に行ったところ電柱ごとなくなっていたと伝えると、ひどく喜んだ。

 

ともあれ幼い私にとって、兄はただひとり、目の前にいるその人だけであり、それが絶対であった。たぶん、コミュニケーションはうまくとれなかったのだろうけど、「兄」という生き物は私にとってそういうものだったのだ。

 

チャンネル権は兄にあり、時代劇や刑事ドラマ、ルパン三世の再放送をずっと一緒に見ていた。今思えば、予定調和というか、同じ展開の繰り返しが自閉症の兄には心地よかったのだろう。おかげさまで年上との話題に強くなったのは、副産物だけども。

 

早生まれで幼稚園のクラスでも一番小さく、精神的にも幼かった私は、茫漠と過ごしていた。それゆえ世界の中心は自分自身ではなく、兄も含む家族であった。

障害者なんて言葉をしらない、そんな日々。家族という揺りかごで揺られていた、そんな日々。

 

心ない事件や街角の風景で心を痛めたとき、ふと、むかしを思い出す。