今日も 来て しまった

おいしく食べて、温かい布団で眠る。しあわせのかたちを考える日々の記録

定食春秋(その 573)天然アジフライ定食

 

少し昔、昭和末期はまだ専業主婦も多く、中食も今ほど華やかでなく、食事は各家庭で手づくりされていた。冷蔵技術も頼りなく、季節ごと、旬の素材を食べていた。

 

うちの母も例に漏れず、工夫を凝らして食卓を彩っていた。当時は当たり前と思っていたけど、今では感謝しかない。アジフライを食べながら、ふとそんなことを思う。

 

母は孫娘をたいへんかわいがり、いつ遊びに来てもいいように果物やジュースをそろえていた。数日前に訪問を予告しようものなら、惣菜をつくって待ち構えていた。

 

孫娘が一度でもおいしい、といえばそれを記憶して度々食べさせてくれたのを思い出す。なかでもよく、コロッケ、炊き込みご飯、アジフライを手づくりしてくれたっけな。

 

さて本日は一尾まるまるのアジフライ。大ぶりなので三枚おろしである。アジは味がよいから「アジ」と名づけられたとも言われ、旬のアジは例外なくおいしい。

 

先日は能登産のアジだったけど、本日はは三重産らしい。伊勢アジでも、志摩アジでもおいしそうだけど、あえての「天然」呼び。まあ、雰囲気ものだし、味は同じだし。

 

いろいろと郷愁もこめてアジフライを頬張る。衣はカシュッとした歯ごたえで、中の身はフカフカ。でも身が詰まっていて、自然な旨みと塩っけが、ソースと好対照。

 

三角食べでごはんを喰み、味噌汁を飲んでひと息つく。付け合わせのキャベツはやわらかで、油っぽさを消してくれる。ふと、小骨があったので、そっと取り出す。

 

そういえば、孫娘に小骨を指摘された母は「おばあちゃん、あまり見えないから」といってアジフライをつくらなくなった。どんな思いがこめられた言葉だったろう。

 

どこで何を食べようと、このカラダの基礎は実家でつくられたものであり、大病をしないことをありがたく感謝する。涙こそ出ないものの、今日のアジはしょっぱいや。

 

ごちそうさまでした。